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中四国の興味深〜いクジラの歴史と文化、っていうお話

Updated: Mar 23

山口や高知の海にはクジラの通り道がある!?

捕鯨地や消費地、それぞれに栄えたクジラ文化!


まいどおおきに。

大阪の中央卸売市場で鯨肉の仲卸をやってる高浜康子です。


春の足音が近づいてきましたねぇ。

新入学や就職など、新しい生活を始める人も多い季節は、がんばりすぎて体調を崩したり疲れやすく感じたりってことも増えがちですよね。

そういう時にもおすすめしたいのが鯨肉です。

抗疲労物質のバレニンが豊富な鯨肉を食べて、新年度も勢いあるスタートを切ってほしいわぁ。


そうそう。

最近、大阪湾やその付近で“迷いクジラ”のお話をテレビとかネットのニュースでよく見かけません?

その理由は色々と言われていますが、何にしてもその近所までは来ているということですよね。


以前のブログでも書きましたが、大昔はこうした“迷いクジラ”や座礁したクジラを活用して村の財政難を乗り切ったってお話もあるので、昔はありがたいことやったんやろうね。


でも今では、先日もテレビで言うてたけど、亡くなったクジラの遺体を海に沈めるにしても、骨格標本の見本をつくるために埋めるにしても、償却するにしてもスゴいお金が掛かるっていうことで、“悩みのタネ”になってるんだから、時代が変わると価値も変わるんですよね。

 

なんにしても、クジラっていうのは今も昔もそれくらい身近にいる動物で、色々な関わりがあるっちゅうお話やね。


今回は、身近なクジラということで中国・四国地方のクジラの歴史や文化について調べてみました。

ちょっと読んでみたって〜。






 

【目次】



 

日本のクジラの歴史を担う中国・四国地域


山口県下関市のクジラとのかかわりは古く、鯨骨の化石や、弥生時代中期頃の遺跡から鯨骨で作られたアワビオコシ(アワビを岩からはがす時に使う採捕道具)が出土しています。

当時から海岸に打ち上げられたクジラの肉は食用として、骨は道具などに利用されていたと考えられます。


古式捕鯨の地として知られる山口県長門市は、全国的にも早い時期とされる1672年(寛文12年)から捕鯨の歴史が始まったそうです。

当時の捕鯨は、沿岸近くを回遊するクジラを一定の網代に追い込み、網で囲んで銛で突きとる「網取り捕鯨」が主流だったとのこと。


クジラは温かい南の海で出産・子育てをするため、毎年秋から冬にかけて日本海を南下します。

長門付近を通過する時がクジラの漁期となりました。

北浦沿岸の川尻地域だけで約200年間に2,800頭以上捕獲したという記録があるそうです。


長門で捕鯨がさかんだった頃には、問屋を中心とする商業が盛んだった下関は、捕鯨をする鯨組への資金の提供や資材の補給、また流通と消費地としての役割を果たしていました。

鯨肉や骨などは下関に集められ、北前船に搭載されました。

骨は薩長同盟を結ぶ薩摩に送られ、畑の肥料などに使われたそうです。

また、長崎・生月の西海捕鯨組織である「益富組」の営業所が下関の問屋街に置かれたことから、西海捕鯨の鯨肉の中継基地でもあり、下関に流通文化が生まれたとのことです。


明治後期には銃を使った捕鯨が始まり、対馬海峡などの沖合いで漁が展開されるようになるとクジラの頭数は激減。

沿岸へ寄ってくるクジラも減り、長門での古式捕鯨の歴史は1910年(明治43年)に幕を閉じたそうです。

外国の進んだ捕鯨技術に影響され、近代化への対応を迫られたこの時期に登場したのが「日本の近代捕鯨の父」と称される岡十郎と山田桃作で、長門に本社を置く「日本遠洋漁業株式会社」を設立しました。

「日本遠洋漁業株式会社」は、本社は長門で、下関には出張所と倉庫が置かれました。この頃下関はクジラ製品の加工・販売基地として機能していたそうです。


昭和初期に南氷洋捕鯨が始まり、下関はその基地として全国に知られるようになりました。

太平洋戦争中の中断を経て、戦後は食糧不足解消などのため捕鯨が再び盛んになりました。

昭和30年代から40年代にかけて下関に水揚げされた鯨肉は、最高で2万トンにも達していたそうです。


その後、様々な国際的な問題が起こりますが、2019年(令和元年)に商業捕鯨が再開され、下関は日本で唯一の母船式捕鯨業の基地に位置付けられました。

現在では鯨肉陸揚げ量日本一を誇り、鯨肉料理を提供する飲食店は市内に100店舗以上あるそうです。



四国では、高知県の室戸岬と足摺岬を結ぶ土佐湾がクジラの回遊するコースとなっており、室戸市が土佐捕鯨発祥の地として知られています

1624年(寛永元年)頃、室戸岬町津呂の大庄屋、多田五郎右衛門という人が、土佐藩の許可を得て13隻の鯨船を作り、鯨組を組織したことに始まるといわれています。

この頃の捕鯨は十数隻の船団で鯨を追いかけ、銛で突き取る「突き取り式捕鯨式」でした。

一時は200人の漁師を抱えるほど大漁が続いていましたが、やがてクジラの来遊が少なくなって不漁となり、1641年(寛永18年)捕鯨は中止となったそうです。


江戸時代初期に始まったのが、和歌山・太地から伝わった「網取り式」の捕鯨で、「津呂組」「浮津組」の2つの鯨組が結成されました。

1867年(明治40年)頃より、汽船でクジラを追いかけ銃で撃って獲るようになると、クジラが寄り付かなくなり、室戸の漁師達は南氷洋まで捕鯨に行くようになりましたが、1987年IWC(国際捕鯨委員会)が捕鯨を禁止したことにより、室戸捕鯨の歴史は終わりを迎えました


1989年以降は、湾中部から西部にかけてニタリクジラを対象としたホエールウォッチングが盛んになり、クジラは観光資源としても活用されています。

土佐市や土佐清水市、黒潮町でもホエールウォッチングが行われています。



<参考サイト>


・捕鯨の歴史とくじら文化


・「くじらの街下関」の紹介


・【クジラ探訪記④】山口県・下関市(日刊水産経済新聞2021年12月28日掲載)


・しものせき物語


・下関はくじら肉の陸揚量・流通量 日本一


・【新クジラ探訪記・高知編】高知県(日刊水産経済新聞2022年1月31日掲載)


・鯨文化と産業(室戸市)


・捕鯨関係


・土佐湾のクジラ




 


中国や四国の各地で、クジラに関連する施設や鯨信仰などの文化が見られます。

いくつか調べてみました。

 

【山口県下関市】

「下関市立考古博物館」では、鯨骨製のアワビオコシを所蔵しており、クジラと人間の太古からの関わりを学ぶことができる。

国内唯一、全長26メートルあるシロナガス鯨の全身骨格標本を展示している「海響館(かいきょうかん)」では、下関市周辺に生息するクジラの仲間の調査・研究も行っている。

「つのしま自然館」では、2003年(平成15年)に新種のクジラとして認定された「ツノシマクジラ」の骨格標本レプリカなどが展示されている。

「あるかぽーと」内の広場には、40年にわたり活躍した「捕鯨船 第二十五利丸」の捕鯨砲等の部品がモニュメントとして設置されている。


<写真>PhotoAC「しものせき水族館 海響館」より 


【山口県長門市】

江戸時代から明治時代にわたり捕鯨が盛んに行われてきた青海島の通地区「通(かよい)くじら祭り」では、古式捕鯨の勇壮な様子が再現される。

男たちが手漕ぎの和船に乗り、大きなクジラに見立てた船をモリや網を使って追い込み、捕獲して岸まで引き揚げ、クジラに対する恩恵と感謝の気持ちを込めた「鯨唄」が披露される。

鯨唄は労働歌であり祝い歌でもあるが、太鼓のほかに鳴り物や手拍子を打つことはなく、合掌の形のもみ手で、哀れみ、祈るかのように歌われるとのこと。

クジラへの哀れみと畏敬の念は保存会によって守られ、地元の小・中学生にも受け継がれている。


同地区の向岸寺に「鯨墓」がある。

捕獲したクジラの中には、おなかに胎児がいるものもいたため、漁民は胎児の供養をするようになり、1679年(延宝7年)に向岸寺の讃誉上人によってクジラを弔う「清月庵(観音堂)」が建てられた。

1692年(元禄5年)には鯨墓を建てて胎児を埋葬し、一頭一頭に戒名をつけて「鯨鯢過去帖」に記すようになり、命日や戒名のほか、捕獲年月や鯨種、捕獲場所、体長、捕獲鯨組が記載されているとのこと。

かつては対岸の長門市仙崎にも鯨墓が存在し、仙崎出身の詩人の金子みすゞは、鯨墓が存在する地域の慣わしに感銘し『鯨墓』を書いた。


<写真>PhotoAC「長門市仙崎」より 


【高知県室戸市】

土佐捕鯨発祥の地として古くから栄えてきたクジラのまち。

近海にクジラが出没すること、海軍(土佐藩主の兵)の訓練のためにという2つの理由から、捕鯨が盛んに行われた。

浜には捕ってきたクジラをあげて解体した「鯨ばえ」という場所がある。

室戸市役所にはミンククジラの骨格標本が展示されている。

鯨資料館「鯨館」では室戸の捕鯨の歴史を紹介しており、明治中期、勇壮な捕鯨の様子が描かれた古式捕鯨の「室戸捕鯨絵図」を中心に、人とクジラの物語をデジタル技術で体感できる。

「金剛頂寺」には「捕鯨八千頭供養塔」、「中道寺」には鯨の位牌がそれぞれまつられているとのこと。

 

【高知県香美市】

土佐山田町に「八王子宮」という、クジラをまつる神社がある。

現在の地には1640年(寛永17年)に移転され、そこで江戸時代から続く捕鯨集団の浮津組の氏神になり現在に至る。

神社であるが、鯨位牌が奉納されている。

 

【愛媛県西予市】

明浜町地域(旧・明浜町)には3つの鯨塚があり、最もよく知られているのは高山地区のもの。

1837年(天保8年)、大きなクジラがこの海岸に打ち上げられた。

この年は大飢饉で苦しんでいたが、このクジラのおかげで村民は生き延びることができた。

これに感謝して「鱗王院殿法界全果大居士」の戒名がおくられ、手厚くまつられた。

町指定有形民俗文化財。

 


<参考サイト>


・農林水産省[Guide]鯨ゆかりの地を巡ってみよう 全国「鯨」マップ


・くじらと人のつながり


・くじら資料館(長門)


・つのしま自然館


・室戸の鯨文化を体験できる迫力の展示がたくさん!「鯨館」



 

日常的に根付く中国・四国の鯨食文化


中国・四国では、節分や年越しに食べる縁起の良い行事食として鯨食が根付いています。また、日常的に食べられている地域もあるようです。

 

【山口県長門市・下関市】

「大きなものを食べて大きく年をとる」「大きなものを食べて邪鬼を払う」との願いを込め、節分にクジラを食べる風習があるそうです。

尾びれを薄くスライスした「おばいけ」が節分の行事食となっています。



山口県の北部では、おばいけとねぎを酢味噌で和えた「ぬた」が春先に食べられ、桃の節句におひな様にお供えする地域もあるそうです。



「うちの郷土料理 次世代に伝えたい大切な味」掲載の「山口県 ぬた」より



鯨食文化が根付いており、「鯨肉の竜田揚げ」や「鯨肉の南蛮煮」などが日常的な家庭料理として食べられています。

「鯨肉の南蛮煮」は、食べやすい大きさに切った鯨肉とこんにゃく・里芋・ダイコン・ニンジン・ゴボウ・シイタケなどを味噌仕立てで煮込んだもので、赤身だけでなく皮の部分も使うことがあるそうです。



出典:農林水産省Webサイト

「うちの郷土料理 次世代に伝えたい大切な味」掲載の「山口県 くじらの南蛮煮」より


また山口県ならではのメニューを「感鯨料理」として開発する取り組みが行われています。

地域色を打ち出せる食材として、上質な甘みがありながら下処理が難しくあまり流通していない「鯨舌」(「さえずり」とも呼ばれます)を使ったメニューを多数開発しているそうです。

クジラの食文化を後世に伝えようと、小中学校や幼稚園、保育園の給食で鯨肉を使った料理が提供されているとのことです。

 

【高知県】

大きなものを食べることで「大物になるように」という願いを込めて、年越しに鯨肉が入った「暮れの煮物」を食べる習慣があるそうです。

醤油やみりん、砂糖で味をととのえ、下ゆでしておいた鯨肉と、大根や人参、こんにゃくなどを合わせて煮込む料理です。

他にも、高知独特のクジラの食べ方として、醤油と砂糖で甘辛く煮た「すき焼き」や、葉ニンニクを入れたぬた(白味噌、ユズ、酢、砂糖)で食べる和え物があるそうです。

【島根県】

浜田市と益田市で昔から食べられているのが、クジラの皮を炊き込んだ「クジラご飯」です。

細かく刻んだクジラの皮とダイコン・ゴボウ・シイタケなどを炒めて醤油で味付けしたものをごはんに混ぜたり、炊き込んだりします。クジラのような大物になることを願って、節分に食べるとのこと。

昭和初期、雪深いこの地域ではクジラの皮を大量に買い込んで塩漬けにするなど、鯨食文化が根付いていたそうです。

出雲地方では、大みそかに「クジラ汁」を食べる風習があったそうです。

奥出雲のクジラ汁は、クジラの皮と油の部分を薄切りにし、ダイコン・イモ・豆腐などを入れ味噌仕立てにします。

また出雲平野では、塩クジラを薄切りにして大カブやニンジン・はんぺんと一緒に炊いた「クジラの大カブ汁」を食べていたそうです。

 

<参考サイト>


・おばいけとは【山口県の郷土料理】くじらの部位や食べ方、栄養、価格などを調査!


・くじらの竜田揚げ 山口県


・山口県 ぬた


・くじらの南蛮煮 山口県


・鯨料理・鯨食文化


・“捕鯨のまち” 下関の小学校でクジラ肉の給食 


・“クジラの食文化を後世に” 園児がクジラ肉味わう 長門


・高知県 暮れの煮物


・島根県 くじらご飯


・【島根県】くじら汁(奥出雲の食) 大晦日にはクジラ汁で年を越します


・【島根県】くじらの大かぶ汁(出雲平野の食) 「将来大物になりますように、財産が大きく増えますように」と願いを込めて



 

《クジラの美味しい部位をご紹介⑨》皮須

腹側の中央付近の皮で、皮と赤身が一体になっています。

スライスして鍋や煮込み料理に入れると、良い出汁が出ます。

冷凍状態では脂肪層に血が侵食していて、ほんのり赤みを帯びた血合いになっています。

流水でしっかり洗い、水を張った容器に入れ、容器ごと冷蔵庫に入れて解凍します。

解凍すると徐々に内部の血が抜けていき、血合いの赤みが取れて白くなっていきます。

皮須を使ったベーコンは、畝須ベーコンに比べて多少硬めで、歯ごたえがあります。

ショウガ醤油や辛子マヨネーズなどをつけたり、炒め物の具材にしたりと、様々な味わい方で楽しめます。



<高浜商店の商品紹介>


お買い得パック ミンク鯨 皮須ベーコン100g×10パックセット

 

<参考サイト>


・クジラ肉の豆知識


・株式会社カネ又田中商店 皮須ベーコン







《おうちでも簡単!鯨肉実践レシピ⑨》皮須ベーコンの野菜巻き


鯨肉のベーコンはそのまま食べるのはもちろん、いろんなお料理にアレンジして使っても美味しいです。お好みの野菜やドレッシングで、栄養バランスの良い野菜巻きにチャレンジしてみませんか?


《皮須ベーコンの野菜巻きの作り方》

【材料】(4人分)

・鯨ベーコン:80g

・パプリカ(赤・黄):各1/2個

・セロリ:1/2本

・万能ねぎ:1/2束

・ピクルス:適量

・お好みのドレッシング:適量

 

【作り方】

・パプリカ、セロリはせん切りにする。万能ねぎはベーコンの幅に合わせて切る。

・それぞれの野菜をベーコンで巻き、ピクルスと一緒につまようじで刺す。

・器に盛りつけ、ドレッシングを添えてできあがり。

 

<参考サイト>


・鯨ベーコンの野菜巻き




 

《クジラの豆知識》新しい捕鯨母船「関鯨丸」について


2023年11月、日本の捕鯨業を33年間支え続けた世界唯一の捕鯨母船「日新丸」が引退しましました。

南極海への航海は27回に上り、調査捕鯨と商業捕鯨で計約1万7000頭の鯨を解体処理した日新丸。

その跡を継ぐのが、70年ぶりに新造される「関鯨丸(かんげいまる)」です。

関鯨丸は、全長112.6メートル、幅21メートル。

積載能力はニタリ鯨100頭分に相当し、航続距離は約1万3000キロで、南極海への航海も可能。

船に引き上げたクジラを加工するための機械も導入する予定とのことです。

山口県下関市を母港とし、2024年3月に竣工後、5月から6月頃に就役する予定。

関鯨丸の保守整備や漁獲する鯨肉の加工や販売などによる経済効果は、20億円が見込まれているそうです。

捕鯨を行う共同船舶の社長は、関鯨丸の建造で「少なくとも今後30年間は鯨肉の供給責任を果たせる」と話しています。




 

<参考サイト>


・Wikipedia 関鯨丸


・世界唯一の捕鯨母船「日新丸」引退


・70年ぶりに新造!捕鯨母船『関鯨丸(かんげいまる)』進水式が開催!来年3月に完成予定






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